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ぼちぼちと・・・

実証主義

 もうだいぶ前、いろいろな分野でいわゆるポストモダン論争が盛んだったころ(といっても、私の学生時代はだいぶ下火になった時期だったが)、たまたま以下の論文を読んだことがある。なんでこの論文を読んだのか覚えていないのだが、おそらく「ポストモダン論争」とか「言語論的転回」とかで検索に引っかかったんだろうと思う。

 

赤川学「社会問題としての売買春:社会科学の言語論的転回をふまえて」

 

 ここで赤川氏は現状を次のように回顧し、

 近年の歴史学に「ポストモダン論争」と呼ばれる大きな争点があり,ポスト・モダンあるいは言語論的転回以降の立場にたつ歴史学者と,従来の「実証主義」的立場にたつ歴史学者との間で活発な論争が行われている。その中心にあるのは,「テクスト/コンテクスト」という二分法,そしてその両者の関係をどうとらえるかという理論的な課題である。(p66)

さらに次のように述べる。

 社会史の大家ローレンス・ストーンが過去を回想する形で提起した歴史学的方法の基準もまた,そうした歴史的真実の推定・確定に関わるものである。彼はいう。

 (a) 歴史の真実をこの手につかむことはけっしてできない。したがっていかなる結論も条件つきの仮説にすぎず,新しいデータやよりよい理論が出現して,ひっくり返される可能性をつねにはらんでいる。

 (b) 文献(ドキュメント)――当時はテクストとは呼ばなかった――を書いた人聞はみな誤りがつきものである。間違いを犯し,誤ったことをいい,史料編纂にあたってもイデオロギー的な方向づけがある。したがって文献に対しては,著者の意図,文献の性格,それが書かれたコンテクストを念頭に置き,十分注意を払って吟味しなければならない。*1

 第一の要件はいわゆる反証可能性であり,第二の要件は史料批判の問題である。歴史学における「真実」という概念が,理論構成上この程度まで抑制の利いたものであるならば,ある意味で問題は少ないのかもしれない。それは少なくとも暴力的な還元論ではない。実証主義を標携する歴史家は,あたかも裁判官のごとく,歴史的事実を推定するという作業に携わっている。これに対してポストモダニストは歴史記述の物語的な性格を,あたかも文学テクストの文体論のように問うているだけだ。そもそも研究の目的が違うのだ,と。実際,ポストモダン論争に関わる多くの対立点は,こうした学的方向性の違いとして解消可能なように思える。(p68)

 私はこの文章を読んで、非常に驚いた記憶がある。「歴史学における「真実」という概念が,理論構成上この程度まで抑制の利いたものであるならば,ある意味で問題は少ないのかもしれない。それは少なくとも暴力的な還元論ではない。実証主義を標携する歴史家は,あたかも裁判官のごとく,歴史的事実を推定するという作業に携わっている」もなにも、ローレンス・ストーンが言ってることは実証研究そのものじゃないか、逆に「俺の研究は絶対的真実だ」とかいう歴史学者がいるのだろうか?と奇妙に思えたからである。

 

 もう少しくわしく考えてみる。歴史学でも他の分野でもおそらく同じだと思うのだが、実証研究というのは、「全知全能の神からみた唯一絶対の真理」を明らかにすることではないだろう*2。常識的に考えても、われわれ人間という有限な存在にはそんなことは不可能だろうし、またその必要もない。では実証研究とはどんなものかというと、「現在入手可能な理論なり証拠なりに基づいて、『これくらいなら、まあいいんじゃない』と研究者サークルのおおよそが同意してくれるような、現時点での暫定的な結論を引き出すこと」ではないだろうか。

 例えば、かつてはマルクス主義に基づいた歴史研究が多かったそうだが、現在ではそうではないので、史料なり事実なり・・・の解釈がかつてとは変わった可能性がある(理論の変更)。また、引退した外交官へのインタビュー、庄屋さんだった家系宅の蔵から古文書が発見された、発掘によって凄い遺跡が出土した、などの新たな証拠の出現によって、既存の史料なり事実なり・・・の解釈が変わるのもよくあることではなかろうか。もちろん今後も、新たな理論なり証拠なりが出現してくる可能性がある。

 そう考えてみたら、歴史学の研究成果ってどうやっても「現時点での暫定的な結論」でしかないし、その意味では、逆に「常に異議申し立て/再審に対して開かれている」ものでもある。

 では、このような暫定的な結論について真理性が認められないかというと、そうではないだろう。「唯一絶対的な真理」とか「なんでもありの絶対的(?)相対主義」というのは極論であって、その中間がある。白(唯一絶対的な真理)と黒(何でもありの相対主義)の間には灰色のグラデュエーションがあって、白よりのグレーとか黒よりのグレーとか違いはあるものの、中間的な領域があるのである。

 いうなれば、世の中のたいていの人が、まあだいたいこれくらい説明できればOKなんじゃない?、と納得というか同意してくれるといった程度の「正しさ」があれば、われわれの日常生活も、たいていの場合の学術研究も間に合うのではないだろうか。そしてこれは、たぶん私だけではなく多くの人がそう考えるのではないかと思っていたのだが、違うのだろうか。私は自然科学について何も知らないが、数学者の黒木玄氏は「「科学は絶対的に正しい」なんて言うやつなんかいない」という主旨の発言をしている*3が、これも同様の発想に基づく発言なのではないだろうか。

 なお、念のため付記しておく。20年も前の論考を持ち出されて赤川氏も迷惑なことと思う。現在では同氏の考えも変わっている可能性もあるし、ここで私が同氏の論考を取り上げたのは、たまたまこの件について私の目に入ったというだけであり、他意はない。

 

 ところで、何でこんなことを思い出したかというと、最近になって次のツイートを知ったからである(といっても数年前のツイートなのだが)。

20世紀半ばの哲学者たちはおしなべて、世界に真実はない、ものごとは解釈でいくらでも自由になる、と主張してきました。それが行きすぎてソーカル事件が起きたのはご存じのとおり。1990年代からは一気に風向きが変わり、「確かな真実は疑い得ない」がトレンドになります。

https://twitter.com/hazuma/status/334519814137737216

 上記は哲学者の東浩紀氏が、南京大虐殺従軍慰安婦問題の「事実問題」について相対主義的なスタンスを採ることを表明し議論になった際の発言である。

 これはいったいどういう意味なのだろうか。文中の「世界に真実はない」という発言は、「ものごとは解釈でいくらでも自由になる」ということからかつては極端な相対主義が主流であった、ということだろうか。また「確かな真実は疑い得ない」というのは、極端な相対主義の真逆の「唯一絶対の真理」というか、あるいはそれに近いニュアンスを意味するのであろうか。

 短文なので真意を測りかねるのであるが、どうも極端から極端へという風に感じてしまい、何となく落ち着かない。自然科学だろうと社会科学だろうと人文学だろうと、いわゆる「実証的な経験科学」の人間は、ソーカル事件の前だろうと後だろうと、前述の「真っ白でも真っ黒でもない灰色の真理」を探究していたのであって、それは変わらないのではないだろうか。私には東氏の感覚がよく分からない。

 

 もしかしたら、哲学的な意味や「ポストモダニスト」のいう「実証主義」と、「実証的な経験科学」の人間が考える「実証主義」は、ニュアンスが異なるのかもしれない。もちろん「実証的な経験科学」内部においても、分野ごとに微妙に感覚が違うのかもしれない。

 歴史学における「ポストモダン論争」に際して、北田暁大氏は「自らが提示する記述を永久不滅の真なるものと考える実証史家はいない」と発言している*4が、これはもちろん否定的な意味での発言ではなく、「ポストモダニスト」と「実証主義者」との調停を試みてのことであったのだと思う。

 「実証主義」や「実証研究」という言葉というか概念をめぐって、もしかしたら不毛な対立があったのかもしれないし、もしかしたらそれは今でも続いているのかもしれない。

*1:PC内のメモ帳を見ると、ローレンス・ストーン「正しい道に踏みとどまりさえすれば・・・」(『思想』838、1994年)p53-54。なおここでは引用されていないが、ストーンは「私たちだれ一人として、自分の属する人種、階級、文化による偏見や先入観から逃れることはできない。だからこそE・H・カーの薦めにしたがい、歴史を読む前に歴史家の経歴を知っておくべきである。」とも発言している。

*2:こういったことを、確か野家啓一氏が言っていたように思う。たぶんこの本。https://www.amazon.co.jp/dp/4000281526/

*3:黒木玄「相対主義に関するよくある質問」http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html

*4:PC内のメモ帳を見ると、北田暁大「〈構築されざるもの〉の権利をめぐって」p263、https://www.amazon.co.jp/dp/4326652454