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ぼちぼちと・・・

テクストの一義的読解?

 パソコンのフォルダを漁っていたら、かつてのお勉強ノートが出てきた。そこには金森修氏がジャック・ブーヴレス氏に言及しながら行った「フランス現代思想」批判の文章の抜き書きがあった。

 少し長いが転載する。

 テクストに対するポスト構造主義的な見方にしても、ブーヴレスにならって、次のようには考えられないだろうか。テクストがもちうる意味の一義的確定は、理性の圧制的な横暴にすぎないというタイプの議論が社会空間のなかで殊更に主張されねばならないと多くの人が感じるほど、「テクストの一義的読解」はこの世の春を謳歌し、圧制をほしいままにしているとでもいうのだろうか。テクストの意味の確定が次々に行われ、個人の微妙な読みの違いなどが出る幕は既になくなっているという状況認識はいったいどこからでてくるのか。人はそれほどある個別的テクストを前にして、「こう読まねばならない」という至上命令に屈せざるをえない状況下にあるのか。第一、「こう読まねばならない」ということが本性的に悪癖で弊害的な命令であるとするなら、人を数年以上拘束するか、まったく自由のままに解放しておくかを決める決め手となるはずの刑法の条項でさえ、ある確定的な読みをしてはいけないということになるのか。もちろん多くの法学上の論争や法廷での闘争が示しているように、法律の条文でさえいろいろな付帯状況による偏差や解釈上の力点の置き方によって、多様な読みがでてくるということはある。だが法律が多層的な読解を許す状態にあるというのは、現状の事実判断なのであって審美的価値判断ではありえない。もしできることなら法律の条文はあまり多層的な読解を許さないように書かれていることが望ましい、という規範が崩れるということはありえない。その逆に、法律ではなく、テクストとして念頭におかれているものが哲学や文学であるとするなら、ある個別的なテクストが多くの意味の揺れやずれを含むというのは、言わせてもらうならまるで自明のことではないのか。たとえばプラトンの『国家』や谷崎潤一郎の『細雪』の「決定的で一義的な読解」など、かつてわれわれが手にした試しはあるのだろうか。ポスト構造主義が殊更にそれを批判することの意味はどこにあるのか。それに仮にその種のテクストがあり、それについて比較的多くの人が採用する標準的読みがあったとして、それは何もそれらの人々が「ロゴス中心主義の圧制」に則してむりやりそう読んでいるのではなく、いろいろな証拠によって、そう読むのが比較的妥当性が大きいと考えているだけだという可能性は当然ながら絶無ではないのだ。それにいくら目の前にあるものが「哲学的テクスト」であり、それが数学や法律のようには意味確定を行うことができず、それが開示するテクスト世界の裂け目や揺れを消し去ることができないとしても、だからといってたとえばマルクスの『ドイツ・イデオロギー』のテクスト世界と、ジョセフ・ド・メストルの『聖ペテルスブルグの夕べ』のテクスト世界を強いて区別するだけの根拠は存在しないなどというような主張がまかり通るような事態になったとすれば、それは端的に思想の自殺に等しいのである(メストルはフランス王政復古期のカトリック系思想の代表的イデオローグ。マルクス主義とはまるで関係がない。というより、むしろ多くの点で背反する思想である)。テクストの多層的読みなるものの称揚も、度を過ぎればむしろ害毒の成分の方が強くなる。ブーヴレスにならって、残念ながらそう考えざるをえない。

               金森修『自然主義の臨界』、pp.248-249

 

 少し前に仲正昌樹氏のネット上の連載で、アラン・ソーカル氏らによるジャック・ラカン氏批判についての反論の記事を見かけた。今探してみたら、単行本に収録されるということであろうが、その記事は削除されているようだった。

 そこで記憶によって再構成してみると、ラカン氏は虚数無理数を混同しているというソーカル氏らの批判は、ラカン氏のテクストへの誤解/誤読に基づいているという主旨のものだったように思う。仲正氏の反批判は、ラカン氏のテクストを文脈やフランス語の文法に沿って読んでいけば、当該テクストにおいて虚数無理数を混同しているという結論にはならないという主旨のものだったように記憶している。

 

 私はフランス語もラカン理論も知らないので、どちらが正しいのか分からないし、またそれがこのエントリの目的でもない。ただ、そこでの仲正氏のテクスト読解というかその方法論/姿勢は、文脈や文法といった「いろいろな証拠によって、そう読むのが比較的妥当性が大きいと考えているだけだ」という常識的かつ穏当なスタンスをとっているように思えた。

 誤解のないように申し添えておくが、私は仲正氏や彼への批判者を批判したり皮肉ったり揚げ足をとろうとしているのではない。私の目的は別のところにある。

 

 さて、ここで仲正氏の読解の妥当性が高いとしよう。そのうえで、戯画化された「脱構築主義者(?)」にご登場願おう。「ラカンのテクストには多くの揺れやズレが含まれており、ラカン虚数無理数を混同していないなどと確定することはできず、虚数無理数を混同しているという読みをしてはいけないという根拠は存在しない」。

 仮に文脈や文法といった「いろいろな証拠」によった仲正氏の読解の妥当性が高いとするならば、こんなことを言いだす「脱構築派」などおそらく存在しないだろう。それは脱構築派とラカン派が「身内」に近いとか、党派性とかではなく、単に「そんな極端な読みをしてどうすんの?」ということに過ぎないのではないだろうか。

 

 なぜこんなことを考えたかというと、下記のやり取りを知ったからである。

東浩紀氏の歴史認識問題に関するデリダ言及について